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本能寺の変(テレビ感想) [歴史]

昨日の夜NHKで本能寺の変について放送がされた


信長と光秀について研究している人たちがでて持論を展開する


話のなかで秀吉がでてきて「刀狩りと検地」についての論争のなかで


秀吉の考えではなく信長の考えていたことを秀吉が引き継いだという結論で話が終わる


テレビを見ての感想は信長はそんなにすごい人なのか???という疑問が浮かんできた


なにもかも革命児のごとくアイディアをだして世の中を変えた?


信長がそうであってほしいという話にも聞こえてきたのは私だけだろうか


常識のなかでの四国論を聞いて、なるほどとおもったのと同時に


信長が全ての革命児であるとは、常識的にありえないのではないだろうかと思ったのだ


世の中にそんな人がほかにいないからだ、いないから信長はすごいではなく


いないというのが常識なら、信長のやったこととして知られているすべてのことに


信長に助言した人がいたと考えるのが常識ではないないのか


その助言をする人の中に光秀がいたと考えるべきだろう


信長ファンが多いと思うから「助言を受けて実際に行動をした信長はすごいと思います」


秀吉が天下をとって、自分が天下人としてやるべきことは「信長のやりのこしたこと」を続ける


ことだとおもうが、それだけでは短期で終わってしまう、そのあとは?


自分では考えることができなければ、信長と同じように助言をする者が欲しいと考えてもおかしくない


ではだれ?


光秀は死んでしまった、黒田か?光秀とおなじような助言ができるだろうか


では・・・・光秀のような人物が欲しい


石田三成だろう、光秀とどこかが似ていたのではないかと思う


光秀の良さを知っていたに違いない秀吉、それは自分にはないものだったにちがいない


信長のようにみつけて傍に置けばいいと考えてもおかしくない


どこが似ていたのかが・・・・それが知りたいと思った(わたしにはわからないから)


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インターネットニュース・秀吉の検地帳(神戸新聞) [歴史]

織田信長が羽柴秀吉に検地帳を作らせる内容です


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織田信長 [歴史]

お市の方の話の続き


茶々は前回書きましたので、初について幼名はおなべ・お那となるので


呼び名は「な」一字が名前だったと想像する


江はごう・おごうと書かれている


お=御


ご=小


呼び名は「ちいさいう」で名前は「う」一字が名前だったと考えられる


茶々は秀吉が子供のころに会った時の印象で名前を呼んだと考えられる


何故同じ文字を二つ並べるのかは、二女という意味のほかにあるのか


考えると、ちち・はは、も同じ文字を繰り返している


女性の名前が一字と決まっていたら、二つ重ねるのはちち・ははと同じ敬語に


なるのではないのか?


秀吉がおべっかでねねというとしたら、同じようにちゃちゃなのではないのか


というとちゃちゃの名前は一字としたら「ち」となる


お市の方は一字だとしたら「い」になる





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織田信長 [歴史]

女性が名前がないとか幼児期からの記載がないのは


政治的結婚の道具にされていたからかもしれません


不利になる情報を公開してない時代だったのでしょう


織田信長の妹で有名なお市の方も半生記の情報なし


結婚後に登場するが美濃の市橋長利の紹介で浅井家に嫁ぐ


屋号を織田ではなく市橋からとって「お市の方」と考えられる


さらにお市の方と長政の間に3人の女の子なす


茶々(1569年生まれ)・初(1570年生まれ)・江(1573年生まれ)という


茶々が長女としての名前としては「初」があっていると思う


茶々という名前は当て字ではないかと思う


ちゃっけという訛ではないのか?


もしそうであれば「ちゃっけ=ちいさい」で2度繰り返すので


ちいさいちいさい=2女となるはずで茶々は名前から考えると二女の可能性がある


さらに江をごうと呼ぶ


もし「え」と呼ぶと古代日本語では「え=年上の女」という呼び名になる


「年下の女はおと」と呼ばれていた




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織田信長 [歴史]

昨日の続きで女性には名前がなかった


豊臣秀吉の妻の経歴を調べると


杉原家の二女に生まれる、というから「ねね」なのではないのか


名前に順番を意味する数字を使うのは、室町時代ではなく江戸時代?明治時代?


織田信長の三郎の数字は意味が違うのかもしれません



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織田信長 [歴史]

織田信長について書いていました


調べているうちに濃姫の記載が少ないのに困ってしまったわけです


今だったら女性差別問題になっていると思う


時代は室町時代


名前は男性しか使っていけない時代


そこで疑問は家では女性のことを何と呼んでいたのか?


姉ちゃん、妹


大きい姉ちゃん、真ん中の姉ちゃん、小さい姉ちゃん


が基本の予備からではなかったのかと思う


よその家からは「屋号」を先に言って、「屋号」の大きな姉ちゃん


武士は策略結婚が行われていた


結婚後は「北の方」というが、きたのかたは当て字ではなかったのか


「着た」の方が正解ではないかと思う


濃姫の呼び方も江戸時代の小説本に登場する


帰蝶(キチョウ)とも呼ばれていたらしいが、字からしておかしい


これも江戸本ではないかと思うのであてにならない


濃姫がカギのような気がしてならない



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織田信長 [歴史]

織田水軍として九鬼嘉隆が歴史上に登場する


水軍という名前であるから海軍をイメージしてしまうのだが


実際は漁師であったに違いない


それは兵士が農民であるのと同じはずだ


九鬼家は地頭であったらしく、網元と考えた方が理解しやすい


海には領海線は見えない、どこからどこまでが自分たちの猟場というのはなかったはずだ


ただ季節によってとれる魚や海産物がありその際に喧嘩があったとは考えられる



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織田信長 [歴史]

雑賀衆という鉄砲技術軍団がいる


信長と何度も戦ったり、仲間になったりしている


1570年の野田城・福島城の戦いの記録から歴史に登場する軍団で


海運業もしていると書かれている


金品で技術を売ったり、もしかしたら海では海賊のような行動をとっていたのかもしれない


信長は雑賀と戦って負傷をして負けてもいる


鉄砲の使い方が違っていたのであろう、工夫が戦術を変えたのかもしれない


雑賀と戦って負けてしまったけれど新しいスタイルの戦い方のインスピレーションを


信長は受けたのではないだろうか


その結果、鉄砲の数を増やし練習をし1575年の武田との長篠城の戦いでの鉄砲の使いたかの


先駆けになったのではないかと思う


また海軍という今までにない考え方も雑賀の戦いでインスピレーションを受けた


のではないかと思う


船に兵を乗せて移動して敵陣の後方から攻撃したり、本隊の横からも一瞬のうちに


移動して攻撃できるのは驚きであったに違いない。







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織田信長 [歴史]

信長と三好の戦い(野田城と福島城の戦い)でのウキの中にある


石山本願寺の顕如の直筆



これを読んだ文章をコピーしました

 

信長上洛に就て、此の方迷惑せしめ候。去々年以来、難題を懸け申し付けて、随分なる扱ひ、彼の方に応じ候と雖もその詮なく、破却すべきの由、慥に告げ来り候。此の上は力及ばす。然ればこの時開山の一流退転なきの様、各身命を顧みず、忠節を抽らるべきこと有り難く候。併ら馳走頼み入り候。若し無沙汰の輩は、長く門徒たるべからず候なり。あなかしこ。

 

大阪出身の顕如ならば、関西弁をしゃべっていたと思うのですがこの文章には訛がないと思います。
書いた人が僧侶であるためでしょうか?

 

 

 

 

 


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織田信長 [歴史]

何日か前に書いてそのまま別のことを書き始めてしまって抜けてしまった部分を補充する


信長が地図をもとに水攻めをさせ、その戦況を地図または文章で報告をさせていたと


考えられる、たぶん毎日早馬をつかう便があったと思う


それは信長にとって戦が今でいうとゲームのような感覚であったに違いないからだ


結果が知りたいという願望が早馬便があったと思う


そのルートはマニュアル化されるくらいに続いていた


そのマニュアルとルートが秀吉の中国の大返しになったと思う


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織田信長 [歴史]

農家の次男たちが兵に加えていく


その中心が織田信長の集団であったであろうと思う


人集めの旗を持ち進軍するなかに身を投じることは簡単であったに違いない


またなぜ加わったのか信長が知るはずもない


兵になり戦いとは関係のない農家たちの家を襲うこともあったに違いない


家にいるものとは、次男は兵に行ってしまい家を守る長男を中心にして生活をしている家族であっただろう


命令系統のトップになる爺と婆がいて、長男と嫁、その子供たち


暴徒化した集団には自分と同じように排除した家族構成の人たちにへの怒りは


なみなみならないものであったに違いない


自分の家のことを思い出す、命令を下す父、それを止める母、勝ち誇った長男、自分には来ない嫁、


武器を持つ兵は殺害や略奪や暴行をしてその家族を怒り任せに打ちのべしたであろう


残されたものが復習を考えても不思議ではない


もしその兵が信長軍であれば信長軍ではないほかのところで兵になってもおかしくはないだろう


その集まるところが浄土をかかげる一向宗であってもそのために兵として戦うというのも


不思議ではない


信長の兵が次男で固めたとしたら、相手側(一向宗)が長男で固まった兵であることになる


長男と次男の戦いだ








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織田信長 [歴史]

自給自足時代のために欲しいものは自分で作ったものと交換して


手に入れるのが普通であったと思うが、欲しいものというのは作っている作物


はほとんど同じと考えると、海産物や塩という考えが当てはまると考える


よって農家には銭が手に入る手段がないのだ。


楽市楽座によって銭が流通するようになって


モノの値段がつけられるようになったわけです


今までは値段がついていないものが値段が付くことによって


価値観が生まれたと考えます


必要なものほど高く、人気があるのほど高いという価値感


食べるためだけに作っていたものが市場にて売る側が値段をつけるという形になり


売る側と作り手側にわかれ、またほしい側といらない側にわかれ


物の物々交換というものがなくなってしまったと考えます


さらに自分の作ったもの値段と自分が欲しいモノの値段の差に驚きが生まれたことでしょう


欲しいものを手に入れるためは銭が必要なのだが銭を手に入れる方法がない


ないということは手に入らないようになったことは民にとって大きな不満であったと思う


不満を武士に述べる方法が一揆であったと思う


銭に対しての対処の仕方が二つに分かれたと考える


一つは自分から兵になって銭を手に入れるものと、経済に不満をもつものにわかれた


乱暴な言い方をすれば、長男と次男の戦いと言ってもいいのではないかと思う






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織田信長 [歴史]

昔は家を中心にした生活をしていた


仕事場というものがなかった


家族は年齢順に序列されていた


銭を稼ぐために働くのではなく、食べるものを確保するために一家で働く


土を耕し一年間にできる収穫物を知り育て食べる


その繰り返しをして一生を終える


そのことに何も疑問を持っていなかったと思う


自分の土地から部落からその外に出なくても生活はできるからだ


よく考えてみれば犯罪はどうだったのだろうか?


資料がないのでわからないのだが、教育は家のものがしたであろう


働くことと食べることが一体化しているために教育は効果的であったと思う


男の思春期はどうだったのだろうか?


働き手としては男手があった方がいいが、食い扶持を考えると女子の方が嫁に行く


のでよかったのかもしれない


嫁をもらう側に立てば子だくさんの家に嫁が一人一人に嫁いでくるというのは


ちょっと考えにくい


嫁は家を継ぐ長男であったとおもう


次男以後の男たちには不満であったと想像する


般若という言葉は若い男を指すのではないのか


仏教という教育が家の中に入るきっかけであったのではないか


そんな長い自給自足の時代に経済という時代を信長が作ってしまったと思う


特に次男以後の男子にとっては自分の力で家を持つことさえできると考えても不思議ではない


さらに嫁ももらえる


土地がなくても銭があれば野菜が買える時代


信長の側からしても銭によって兵士が手に入るというのは助かったのではないだろうか


兵士が多いということは勝つことが多い、各大名は兵士集めに必死になったのではないのか



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織田信長 [歴史]

信長の歴史を読むと兵士の数に驚く


戦国時代の前の時代には考えられない数字だ


その原因は戦国武将の目印になる旗を見てもわかるように、銭の表示で人を応募していたと


考えるのは当たり前ではないだろうか


信長は楽市楽座を城下に置き、経済をつくったひとであり


経済の流れを作るのは「銭」、しかし信長以前の時代には銭ではなく物であったと思う


農民の自給自足の考えが基本


それで生活ができた時代でもあった、それが市場という経済発展によって


人々の生活パターンが変わってしまったと考えます



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織田信長 [歴史]

荒木村重のウキを見ていたら地図の写真が載っていたので載せます




この地図の完成度は低いですが、画風というか書き方が僧侶が書く絵に似ています


僧侶は文字の読み書きだけではなく、仏画を書く手習いがあったのではないかと想像します


それは地方にある寺に残された達磨大師の絵を描く僧侶がたくさんのこっているからです


絵の完成度というか写実度は引くので、絵師の書く地図ではないと思います


絵師の書く地図らしい写真がウキにあったのでのせます




この写実度があるのが絵師のものと思われます


信長が見ていた地図の写実度も同等だと想像します




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織田信長 [歴史]

織田信長に「地図を書くぞ」と脅かされたらきっとびびってしまう


信長の尾張時代の戦いの結果は負けが続いていた記憶がある


特に美濃戦では連敗だったと思う


それは地の利が原因か、地図がないだけでなく


信長の戦略に問題があるのではないか、もしかしたら戦い好きであっても戦いが上手いとは限らない


好きと上手いは別物だ


ただ好きであるがゆえに時間と努力を惜しまないということは言える


時間と努力をもってすれば上手くなるものではないか


それは否定できない


信長が連戦連勝をすることによって「戦がうまい」というイメージをつくったのは


岐阜と安土時代だろう


地図という武器は、家臣が現場で戦をして作戦は現場本陣にいる大将ではなく


岐阜・安土城にいる信長だったのかもしれない


現場と城を往復するための兵と馬は必要だろう


城の水攻めは現場の大将が考える策には思えない


もっと俯瞰の想像力が必要ではないのか


水攻めは信長時代だけの戦法ではないのか


俯瞰の発想というのは、現場でその場その場で瞬時に判断する人間にできるとは思えない


俯瞰の発想というのは、たくさんの人が餓死して死んだのに不謹慎は言葉を使う「遊び心」だと思う


「遊び心」と「面白い」という言葉が重なる


そして自分の考えが正しい(戦に勝つ)という結果がついて大きな自信になったと考える




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織田信長 [歴史]

時代を振り返って考えてみると、織田信長の時代を安土桃山時代とよばれている


安土桃山時代は戦国時代であると同時に安土桃山美術時代でもある


仏画から城の中を飾る巨大な絵を飾るようになった時代だ


その代表は狩野派、長谷川等伯。


地図は絵をかかないといけない


文字だけでは見る者には理解ができない


絵がないと距離感がわからない


地図を書くのに絵師を頼むことは自然なことではないだろうか


それが以前は仏画を書いていた絵師であっても不思議ではないだろう


絵がうまいだけではなく、戦法を考えやすい絵を描けることが必要ではなかったのか


地形の凸凹や湖の大きさや川の幅など、絵にわかりやすい描き方が欲しかったに違いない


絵師は地図を書く仕事を得て、さらにたぶん絵師を抱えることが


武士にとって権威の象徴であったにちがいないし、絵師を相手国に送るということは


先制布告を意味していたのかもしれないし、最新式の防犯カメラの役目だったかも


権威の象徴の絵が、本来の美術に戻ったのは


太平の世になって戦争がなくなったからではないか


その代表が長谷川等伯ではないか?



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織田信長 [歴史]

日本に地図(正確でなくてもいい)があるとしたら


日本全体図の地図は外国からもたらしたと感がるのが自然だろう


中国か韓国の舟からもたらされたと想像できる


国内の小さいスペースの地図はいつから何だろうと思う


映画ドラマで出てくるルイス・フロイスが信長に会った時のおみあげに


地球儀の模型と世界地図の絵は記憶があります


その時の年号は1569年


昨日まで書いていた田楽狭間の戦いは1560年


岐阜城改名は1567年


信長も今川義元もどっちも地図を持っていない可能性はあると思う


(追記)伊能忠敬による日本地図は江戸時代1821年




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織田信長 [歴史]

以前書いたかもしれませんが、それとも考えていたが書くのを止めたのか


それすら忘れてしまったのですが(笑)


国言葉(訛)の時代に書かれた書物は国言葉で書かれていたのか?という疑問があったのです


今は標準語というものがあります。


戦国時代に標準語がなし、自分のしゃべる言葉がなまっているという自覚もなかったと思う


信長の育ての親、平手政秀は文化人で和歌を詠んだという記事あり(ウキ)


信長も「人生50年~」と歌った能の舞も有名だ


となれば漢字を読めたし書けたということになる


信長のサインをした手紙をテレビで何度もみた記憶もある


「信長公記」があり信長の家臣太田牛一が書いたと言われている


信長の死後は丹羽、豊臣と士官を変えて右筆の仕事をする


右筆というのは代筆をする人(ウキ)らしい


信長は字を書いたのだろうか?


平手から手習いを受けて、字を習ったはずだが??



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織田信長 [歴史]

言葉がコミュニケーションツールであったであろう


時代が戦国時代になり、それまでは戦いというのは自分の領土内の身内同士の戦いの内戦で


戦う場所はお互いにどこになにがあるのか知った地形だろう


戦国は行ったことのない土地に行き、行ったことのない城やその土地の国言葉(訛)での


戦いであったはずだ。


そんな状況の中で、地図をつくる仕事が発生してもおかしくはない


いや、地図がなければ戦うことはできないのだ


地図によって言葉ツールだけではなく、漢字ツールという新しいコミュニケーションが


発生したのだと思う。


それがいつからなのか?はわからないが、今川義元の田楽狭間の戦いの時に


今川が地図を使っていなかったのではなかったのか


地図がないということは、地理に詳しいものが先陣として道を開くというのが


考えられることではないだろうか


田楽狭間の戦いでの今川の先陣は以前自分の領地であった、松平元康と三河家臣


ドラマでは今川が天下統一を目指して京に向かうために大軍を率いたというものが多い


だから兵士は2万という数字が出てきたのだろう


そうであればもし織田を破って、その次に行くのは美濃になる


美濃の地理はどうしてわかるというのだ、地図がない時代だとしたら


家臣に地理に詳しいものがいるのだろうか?そのものが先陣になれるのだろうか


2万という数字と京に上るという話は嘘くさい


この戦いは織田の領地を奪うことだけではなかったのか


それであれば大軍は必要なかったと思う


信長の方も地図がなくても戦える地理


地理を知らない今川は、どこの山に登って戦いの本陣をおくという基本を忘れてしまったのだろう


それが戦いの勝敗を決めたのだと思う


今川は地図を持っていなかったのだ



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織田信長 [歴史]

何度も同じネタを繰り返しているので申し訳ないのだが


「ぎふ」と話す信長のことがきになってしかたがない


これは誰を指すのかで、ストーリーが変わってしまうくらいに大きな問題だと思うのです


平手政秀か斎藤道三か


信長が「ぎふ」と話した時にまわりの家臣はどうおもったのだろうか?


「ぎふ」?当て字が発表になる前だ


きっと斎藤道三のことを指していると思った人が多かったのではないだろうか


道三が美濃を信長に譲るという書簡があるという


でもそれも素直に信じられない気がしてならない


信長に一回か二回かわからないが面談をしただけで、譲るという書簡を書くだろうか


娘の濃姫が嫁に行った先だけら、譲るというのも変ではないだろうか


濃姫を信長に嫁に出す縁談を組んだのは平手政秀だと言われている


尾張と美濃の仲介役も平手政秀だ


平手政秀はなぜ自害したのか


会話がコミュニケーション手段として一つしかなかっただろう時代に


文字というコミュニケーションと記録という手段が必要になったのは


ドラマに出てくる地図ではなかったのだろうか


戦略に必要なものだからだろう


「ぎふ」の当て字は、「義父」という意味であったであろう「ぎふ」が


漢字にしてみれば「義」は道三の子供たちに付けられた漢字の一文字であり


「父」は斎藤道三と織田信孝にあたってしまう


それは避けたいものであったに違いない


稲葉城という名前も美濃三人衆の稲葉良通と同じなのも家臣の名前をした城に


信長が住むわけにはいかなかったのだろうと思う


考えをもらうことを決断してもおかしくないと思う



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織田信長 [歴史]

ぎふは「義父」


「義父」は妻である濃姫の父斎藤道三であるべき


道三の仇をとったのだから、あえて地名や城の名前を変える必要があるだろうか


世に知らしめるため、人の噂も七十五日という


あっという間に道三の仇をとったと美濃の住民にひろまるであろう


名前を変える必要ないと思う


でも、信長は変えてしまった


「ぎふ」と叫ぶ信長


どんな思いがあったのだろうか?



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織田信長 [歴史]

信長が落とした城の数を考えてもらいたい


数十はあるでしょう、その城の名前を変えたという話を聞いたことはない


例外として岐阜城がある


沢彦宗恩が提案をして岐阜と決まった話がある、沢彦宗恩は政秀寺を作った人だ


政秀とは平手政秀をまつったお寺だ


昔、私は漁師と一緒に仕事をしたことがあります。漁師は屋号で呼び合って漁をしていました。


屋号はどんな漢字なんだろうと思って漁師に聞いたことがあります。教えてもらった漢字は


当て字でしかも最近(昭和)の国語から習った漢字をつなぎ合わせているだけだと思った


呼び名で意思を伝え続けているだけで十分なのである


漢字がなくても全く困ることがないのだ


それと同じように貝の名前の言われも、文研と漁師の話とでは食い違いがある


なぜそんなことがあるのか、それは漢字で説明をするために勝手に作ってしまったのではないかと


想像するのです


信長が美濃を岐阜としたときに、信長は呼び名として「ぎふ」と言った


それを漢字にするときに、信長は「ぎふ」を「義父」という意味で呼んだのに


「義父」では問題がある、美濃の人たちの気持ちを考えればそうだろうと思う


「義父」とはだれなのか


それは信長の育ての親、平手政秀であろうと想像をしました


それで漢字を決める時に沢彦宗恩の提案する漢字に決まったのではないかと想像します。




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織田信長 [歴史]

織田信長が城と地名の名前を改名したところ


それが岐阜


調べてみました


中日新聞のインターネットニュースより



記事を書いたのは作家の谷川さんです。読んでみてください。


話を戻して、なぜ?信長は名前を変えたのでしょうか?


なぜ?岐阜にしたのか?ではなく、


なぜ?この地だけ名前を変えたのか?


どうして信長は名前を変えたいとおもったのか?


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織田信長 [歴史]

最近は織田信長について考えていることが多い


私は歴史学者ではない、知識は高校の歴史教科書レベルであり


あとはドラマやインターネットによるウキを活用して想像を膨らませている


織田家家臣団の大物だけですがちょっと調べてみました


その人はその家の何番目に生まれた人か?


織田信長・長男、次男(信長)、ほか


柴田勝家・姉二人、長男(勝家)、ほか


丹羽長秀・長男、次男(長秀)、ほか


佐久間重盛・長男(重盛)、ほか


森可成・長男(可成)、ほか


中川重政・長男(重政)、ほか


池田恒興・長男(恒興)、ほか


滝川一益・長男、次男(一益)、ほか


林 秀貞・長男(秀貞)、ほか


明智光秀、長男(光秀)、ほか


謀反を起こした信長の兄(信広)は父の家計の最年長として一族をまとめる役をしている

さらに公家と信長の間に立つ役もして、戦場にも信長と一緒に戦い戦死する


一族をまとめてるそれが長男の性格ではないだろうか


自分を殺して一族に尽くすのではないだろうか



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織田信長(光秀を苦しめた武将 丹波新聞) [歴史]

丹波新聞からのインターネットニュース記事




内容をコピーすると

丹波攻めの際、八上城がなかなか落城しないため、信長にせきたてられた光秀が自分の母親を人質に差し出した。その後、降伏した秀治らを信長が処刑。主の処刑を聞き、怒った八上城の兵たちが母親をこの松にはりつけにしたという伝説が残る。信長の勝手な所業と母の死が、「本能寺の変」の引き金の一つになったともいわれている


そうだったのか、母親を人質にだしたのか、ん~それは怒るでしょうね


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織田信長(光秀丹波攻め悲話 丹波新聞) [歴史]

丹波新聞インターネットニュースより




光秀の城攻略の悲話を掲載しています


読んでみて戦国時代は信長だけが鬼のような存在であったことだけが表立っているけど


実際はみんなやっていたのではないのか?





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織田信長(光秀恨む女の霊 丹波新聞) [歴史]

インターネットニュースより記事




丹波新聞よりの記事です


読んでみて光秀のイメージが変わってしまいました


イメージ的には頭脳派で知的な人物でしたが、記事によるとやっていることが


信長の真似みたいなことをしていたので、ちょっと驚く


信長の反対側の人という考えではなかったか?


それともずっと一緒に行動をしていると親分の考え方に似てくるものかもしれない


似てくるからこそ、親分の考えがわかるのかもしれない


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織田信長(光秀が築いた城跡?丹波新聞ニュース) [歴史]

インターネットニュース記事から




信長の時代を描いたものは江戸時代の作家のものが多くて


時間がたって書かれたもので、真実味がない


本当のところはわかっていない


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織田信長 [歴史]

織田信長の呼び名は三郎という、前回は次男であるということを書いたので


姉がいたか、兄がいて死亡したのかもしれない、


問題なのは信長の性格が長男では考えられないから書いたもので、長男でなければそれでいいのです。


信長を描かれてるドラマでは服装は縄を帯にして姿が描かれている


さらにその恰好で父の葬式シーンでは悪態をする


それは自由人の信長のイメージで書かれたものだろうと想像する


もし、三男である信長が自分が家を継ぐとは思ってなかったとしたら


家は兄貴が継ぐものであると考えていた信長が家を継ぐことになったことに


怒りさえ覚えていたとしたら、どうだろうか


土田御前の長男であっても、自分は次男であるという自覚があったとしたら


長男は一度信長を裏切るのだが、信長は長男の謀反に対して戦いをしないで終わらせている


さらに長男の謝罪を受け入れ長男はその後は信長の家臣として働く


なのに実弟の謀反には、戦いがあったために殺害させる


自分は長男に刀を抜かなかった、でも弟は兄に対して刀を抜いたことに対する


制裁であったと思う





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