織田信長 [歴史]
ポルトガル日記は信長の最期まで描かれている
登場人物が光秀と秀吉に絞られた内容になっている印象を持つ。
織田家臣はほかにもたくさんいるにもかかわらず、ポルトガル日記は家臣の戦の話が出てこない
ドラマや演劇はよって光秀と秀吉と家康を中心にした内容のものが多い
ここでちょっと強引におおげさに書いてみようと思う
ポルトガル(ローマ字)=光秀
仏教(日本語)=秀吉
と無理やり分けてみた、もし信長が兵力による天下統一だけではなく、新しい国語を全国に統一
しようと思ったとしたら、ローマ字を使ってしゃべる言葉の統一をするために、キリシタンの
説教を利用して、今の学校のように学び舎として教育の場にしたいと考えたとしたら。
また、仏教の漢字を利用しての、文字を読む行為を利用して、言葉の勉強をし
僧侶による説教を利用して、国語の勉強の場として考えたとしたら。
二つの勉強の仕方を、秀吉と光秀によって争ったとしたら、その後の二人の行動が理解できる
でも、そんなに仮説が簡単に現実の話として入れかえることはないだろう
信長は石山本願寺と戦ったという事実
本願寺の戦いに出兵をしたのは、秀吉と光秀である
ドラマでは、この戦いで秀吉は「むごい戦いをした」という立場をとって描かれているが?
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