織田信長の謎 [歴史]
織田信長 [歴史]
追記)
お金の出現によって、食べ物は自分で作って、その家族が食べるという生活が
崩れてしまったと想像する。
とくに若者を家族が縛る「生きていくための方法」を伝授することを
若さゆえに拒むものが出てきたとして不思議ではない
いつの世も、自立したいと考えるものでしょう
お金によって、それまでの対人関係や家族単位の関係や部落単位や国別にも
大きな変化をしたことでしょう。
働く価値観も変わってしまったと思います
それによって、宗教が台頭したのではないでしょうか?
善とは何か、悪とは何か、
それを解く宗教に心が動かされたのではないかと思う
マネーショックの後遺症だと仮説します
織田信長 [歴史]
いろいろと書いてきたのですが、資料がないので仮説は仮説のままでおわりますが
もし、信長がローマ字に興味を持ち、その正体を知りたいとして
そのために光秀がキリシタンに入ったとしたら・・・・
(ポルトガル人日記には、光秀はキリシタン嫌いと書かれたそうですが、娘はキリシタン)
途中までは信長はローマ字派だったのが、何らかの理由で漢字派に変わったとしたら?
嫌いなキリシタンでも牧師の説教に、光秀も心が動かされたとしたら?
光秀が神父に懺悔をしたものがポルトガル日記に記載されたのではないか?
としたら、
信長に足蹴りをされたことを、神父に懺悔したことになる、ということは
信長に怒りを覚えたと懺悔をしたのではないのか?
信長が光秀を足蹴りした原因は「家康の接待のミス」それとも「ローマ字から漢字に決定した」から
それなら信長がどうして心変わりをしたのか?
または、光秀にはローマ字変換が理解できなかった。
それを信長に報告して怒られて足蹴りされた?
何があったのか?
・・・・
仮説は仮説のまま終わります
ここでちょっと宣伝します。私が書いた「時代劇」小説です
http://dead2nixon.blog.fc2.com/
暇がありました読んでみてください、ん~話は途中のままで、書き終えてませんが
ん~ちょっと書く気にならないのでこのままで・・・おわりかも(笑)すまんです
織田信長 [歴史]
ポルトガル日記は信長の最期まで描かれている
登場人物が光秀と秀吉に絞られた内容になっている印象を持つ。
織田家臣はほかにもたくさんいるにもかかわらず、ポルトガル日記は家臣の戦の話が出てこない
ドラマや演劇はよって光秀と秀吉と家康を中心にした内容のものが多い
ここでちょっと強引におおげさに書いてみようと思う
ポルトガル(ローマ字)=光秀
仏教(日本語)=秀吉
と無理やり分けてみた、もし信長が兵力による天下統一だけではなく、新しい国語を全国に統一
しようと思ったとしたら、ローマ字を使ってしゃべる言葉の統一をするために、キリシタンの
説教を利用して、今の学校のように学び舎として教育の場にしたいと考えたとしたら。
また、仏教の漢字を利用しての、文字を読む行為を利用して、言葉の勉強をし
僧侶による説教を利用して、国語の勉強の場として考えたとしたら。
二つの勉強の仕方を、秀吉と光秀によって争ったとしたら、その後の二人の行動が理解できる
でも、そんなに仮説が簡単に現実の話として入れかえることはないだろう
信長は石山本願寺と戦ったという事実
本願寺の戦いに出兵をしたのは、秀吉と光秀である
ドラマでは、この戦いで秀吉は「むごい戦いをした」という立場をとって描かれているが?
織田信長 [歴史]
信長の苦悩を秀吉が改善し、秀吉の苦悩を家康が改善する
それによって国民の生活が変化したのだろう。
文体の言葉(今でいう標準語)は信長の時代になかったのだろうか?
ポルトガル人(イエズス会)が日本に到着して、信長に謁見するまでの時間か
謁見後、その次に謁見するまでの間に、信長の前にどれくらい日本語をしゃべれたか
それを信長に聞かせることが、最初の第一歩ではなかったのではないだろうか。
外人が日本語(尾張語)をしゃべったのを聞いた信長は、そのマジックの正体を
知りたいと思って不思議ではない。世界中をキリスト教普及を目的に出向くイエズス会
メンバーは、その国の言葉を習得するノウハウを持っていたと考えるのは当たり前だと思う
それはアルファベットであり、日本語のローマ字で覚えるという方法であったはずだ
日本人でさえしゃべれない尾張語を短期間でしゃべる外人に驚きは隠せなかったに違いない
信長の行動をポルトガル人が日記に残されている
その中に出てくる本能寺の変の記述の中に、明智光秀の行動が書かれている
信長と光秀の行動を細かく書かれているために、のちの信長伝記のもとになって
ドラマ化された際に描かれている。
このポルトガル日記に、ローマ字について書かれているのか?私はわからないので
やっぱり仮設であって、想像の域を超えることはできてない
織田信長 [歴史]
戦国時代を信長・秀吉・家康と分けて考えると
信長の天下統一という考えは奇抜であって、世の中は訛りが通じる集団だけで
生活をすることしか考えていなかったと思う、さらに信長の時代にお金の価値が
明確になったことが、仕事にあふれた農民の新しい職業としての「兵」が確立
したものと考えられる。
その証拠ではないが、家紋や旗などの戦場で使う道具に「お金」を連想させる
紋や絵や色を使って、戦場近くに住む農民や非農民に「アルバイトしませんか?」
と宣伝をしながら兵を募集しながら戦場に向かったと思う。
畑や水田を耕す仕事をして、食を得る方法しかなかった者にとって「お金」は
新しい職場を作り出したのだろう。
閉鎖的な「訛の国」の集合体の当時の日本で、前に書いた文字を使った「文体」の
言葉を使う(明治時代から作られた標準語)集団が存在していたのではないかと
想像する。
それは仏教という漢字をつかった言葉ツールをもっていた宗教団体ではなかったのか?
それは「訛の国」の集合体の日本でも、統一された「文体」言葉をつかっていたのではないかと
思う。
織田信長 [歴史]
木下藤吉郎は針を売りに全国を歩いて商売をしていた、
また明智光秀も全国大名に仕官をするために歩き回っていたという話を聞く
前回にも書いた「通訳」が戦国時代に存在していたのか?
木下藤吉郎のちの、豊臣秀吉は全国大名の嫡男を「人質」として大阪城にいれ
小将軍団を形成したのが、「人質」だったのだろうか?
徳川家康が尾張で子供のころ過ごした経験で、言葉を取得して大きなチャンスを手に入れた
経験をもとに、秀吉もそれを真似て小将軍団をつくったのではないだろうか。
信長がローマ法王に謁見するために少年4人を使節として送り、謁見後に日本に戻る
時代が変わり、信長から秀吉に権力が移動し、少年4人は秀吉の報告をするために面会した際に
秀吉から家臣になるように命令された。それはたぶん、「通訳」というものが武家社会では
当たり前になっていたのではないかと思うのです。
秀吉は信長と違い、戦いをせずに和睦をすすめた人だ、それは信長より「通訳」を多く
家臣として雇っていたと想像できる。
また信長が外国に開国をしたのも、日本人同士でも会話ができない現状が当たり前なら
言葉が通じないから外国人を排除する理由がみあたらない。
織田信長 [歴史]
炭と墨を使った手紙
その文章は私には読めないが、文体は訛ってた文章なのか
それとも標準文体なのか?
標準語が存在すると、その文体をしゃべることはできることになるはず。
となると会話は成立するはず
徳川家康は三河は尾張の隣の国で、お国言葉に共通するものがあっただろうし、
さらに、家康は幼少のころ、尾張に身を隠した時期があり、
その際にお国言葉を理解する機会に恵まれたと想像される
織田信長 [歴史]
炭と墨によって書かれた手紙(木片)はどうして必要であったのか。
戦国武将の手紙がたくさん残っている。
手紙を届ける郵便局は昔はなかったのに、手紙の数が異常に多いと感じる
想像では、お国言葉(訛)があり、そのくくりが国であったに違いないと思う
昔なので通訳という職業があったのか?わからないが
お互いにしゃべる言葉を理解しあうことは不可能であったはず
初めて行く国、そのお国言葉は、テリトリーを示すために存在していたはず
縄張り意識は想像以上だろうと思う
言葉を理解できなければ、文字が共通語であったはず。
文字を書く炭と墨
海と大地の観察(墨) [歴史]
昔の書物や木片に書かれた文字を見て考える
その文字を書く液体は「すみ」
すみは墨なのか?それとも炭なのか?
炭は樹を燃やしてできる、墨は海水と生活水が混合して黒い砂になる
昔の書物を分析してみたいと思った
どの時代に墨か炭のどっちを使っていたんだろうか
それは地域的(海がない土地)に関係してくるだろう
乾燥した文字の墨(炭)を分析してはっきりさせたいと思ったのです